憲法9条守れ
この間、憲法9条にまつわる色々な話を聞いたものをまとめてみました。
「日本は絶対に戦争をしてはいけない。」
「収容所で次々と仲間が死んでいった。」
◆82才の男性から聞いた話です。
「自分は、昭和19年19歳の時に満州におくられ、翌昭和20年、終戦を迎えたがソ連軍に捉えられ部隊ごと捕虜収容所に送られ、3年間をシベリヤで過ごした。」
「収容所では鉄道建設の仕事を与えられたが仕事は厳しく、沢山の仲間が死んでいった。」「事故で苦しんでいた仲間が朝起きてみたら冷たくなっていたときもあり、自分も具合が悪くなったときには、もう死を覚悟していたが、ソ連の医務官に適切な対応をして貰い助かることができた。」
舞鶴港に無事帰還
◆「昭和23年に日本に帰ることになり、舞鶴港に降り立ったときには本当にうれしかった。山口県に帰ったときには母と祖母が泣きながら迎えてくれ、戦争は2度としてはいけないと思った。」
憲法9条は日本の宝
◆「今、憲法9条を変えて、日本を再び戦争する国にしようという動きがあるが絶対に戦争をしてはいけない。戦争を考えている人は、人の痛みが分からない人が言うことだ。」
「叔父が特攻隊で亡くなり、家族は塗炭の苦しみをおいました。」
◆70才の女性から叔父さんが、特攻隊に入り出撃する前の話を聞きました。
「昭和20年2月に、私は祖父母に連れられ特攻隊の基地のある知覧に向かいました。その頃は鉄道も満足に走っておらず、何日もかけて知覧に着くことができました。」「基地で叔父に会いましたが何とも重い空気であったように思います。」
「終戦前に叔父の戦死の通知が来ましたが、祖父は『南方の島に不時着して無事でおるかもしれん。』といい、祖母はあまりの悲しさに気がふれてしまい、いつも人形を背負い息子の名前を呼んでいました。」
「祖母も叔父も戦争の犠牲者です。 親は自分の子を戦争に送るようなことはしたくないんです。憲法9条をは絶対に守らなくてはいけません。」
「息子が自衛隊にいます。親として戦争には行かせたくありません。9条は守って欲しい。」
■ある50代の男性が自分のこと以上に子どもさんのことを心配しておられました。
「実は、息子が就職するところがなくて、海上自衛隊に入っているんです。 今、憲法を変えて日本が戦争する国にされようとしていますので、親として心配しています。」「今も、インド洋に海上自衛隊が展開しています。息子が戦地に送られるのではないかと思うとたまりません。憲法9条を守ることは親として、当然の思いではないでしょうか。」
「自衛隊ではなく国際救助隊のようにはできないのでしょうか。」
「アメリカは一度奪った土地は返さない国。ごまかされずに戦争に巻き込まれないようにしなくては。」
■ある老人会の会長さんの話です。
「アメリカ西部を旅行したときに、インディアンの資料館を見学した。インディアンは、国と契約して土地を明け渡したりしたが、約束は守られずインディアンは追いやられた。」
「アメリカという国は、一度手にした土地は2度と返さないという考え方を持っている。日本にも戦後60年もたつのにいまだに占領している。」
「兵隊には失業者が大半で、自ら進んでいったのではない。貧困がそうしたものだ。」 「今、日本は被爆国なのに、核兵器廃絶の国連決議にもアメリカ言いなりで賛成すらできない。子や孫にアメリカ言いなりの国づくりというツケをつくらないようにしなくてはいけない。」
「空が真っ赤に焼けているのを見て怖くてたまりませんでした。徳山空襲で叔母が亡くなりました。」
■70才の女性は、徳山空襲の話をしてくださいました。
「昭和20年、防府に住んでいて祖父母と乳飲み子だった弟と歩いていると、大平山の上の空が真っ赤に焼けていて、きれいだなあと思ったいたら祖父が『徳山がアメリカの爆撃を受けて燃えているんだ』といったとたん、とても怖くてたまらくなりました。このときのことはいまだに忘れられません。」
「あとで聞いたらこの空襲で、軍需工場で働いていた叔母が亡くなったそうです。」
戦争の傷跡はいまだにこの方の心にしっかりと刻まれていました。
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